東北大学大学院理学研究科化学専攻分析化学研究室

Firm Resolution(一念発起)



T-CCへの執筆
 T-CCの6月号に一文を書いた。3月半ば頃,東北大学の生協委員の方から「素顔の教官たち」への執筆依頼がきた。6月号掲載予定で4月初めが原稿締切である。日本化学会の春季年会は迫っているし,4月からの講義の準備もしなくてはならない。締切を一年以上も過ぎた原稿(3,4件は未着手である)も書かなくてはならないし,研究成果を論文にもしなければならない。「原稿が遅滞して御迷惑をおかけすることになると思うので」と丁重にお断りした。その後,「研究室訪問(Laboratory Station)の欄なら,生協委員が原稿を書くので如何でしょう」と再び依頼がきた。委員の方とお会いして話を聞き,過去の記事を読むと,「研究室の雰囲気は極めて良い」とか「研究は世界の最先端を走っている」など,内容として確かに事実ではあろうが,そういう文章が自分に直接関係するとなると,何か面はゆい感じがして躊躇する気持ちが大きくなった。委員の方にどうして私に原稿依頼しようという気になったのか理由を尋ねたところ,この執筆依頼に私の娘が1枚噛んでいることが分かった。これで断るわけにはいかなくなった。娘が千葉大学で生協関係の委員をしていることが縁となって今回の執筆となった次第である。

一念発起
 執筆した内容は,回顧録に近いものだが,字数が限られていたので意を尽くせなかった部分も多い。御一読される場合には,一念発起,という言葉を味わって頂きたい。高校の時転校した際,微積のある部分は参考書で独学することとなったが,今にして思えばこれが自分で勉強する習慣を作ってくれたような気がする。それまでは授業を受けて,宿題をして,といった受け身の勉強であった。転校によって能動的に動かざるを得ない状況の中に置かれたのである。研究室に入ってからも随分と遊んだが,その分,実験や論文読みには集中した。研究室でのOn the Job Trainingは私に絶えず能動的であることを要求し,この学生時代の研究活動が,価値観をはじめ,その後の私のすべてを決めたと言っても過言ではない。学生時代は時間を自由に使える。論文や専門書を丁寧に読める良い機会でもある。世界の科学技術の状況把握や実験,データの解析に時間を多く割くことは,研究に対する造詣の深さを与えてくれる。読書も然りである。文系の素養は人としての深みを与えてくれる。幼稚園から大学院まで,人生の約三分の一から四分の一の期間を我々は教育に費やしていることになるが,研究室での生活は最後の教育のチャンスである。学生諸君には,一念発起して,多くのことを能動的に,主体的に学んで欲しいと願っている。




学生時代と今と


子供の頃
 戦後間もない生まれなので子供の頃は大いに遊んだ。今の学生の皆さんには「戦後」という言葉は死語同然だろうと思うが、私の学生時代には「戦争が終わって僕らは生まれた…………戦争を知らない子供達さ」という歌が流行ったほどで、戦争を直接は知らないけれどもその面影を知っている世代と言える。十歳ほど年の違う従姉妹からは、「米軍の戦闘機の機銃掃射を受け、パイロットの顔がハッキリ見えた」といった話を聞いたり、父親の軍隊時代の写真などを見た記憶が今でも鮮明に残っている。
 私は南九州に育った。母親の実家が農家だったので夏休みには従兄弟と一緒に牛や馬を近くの川に連れて行って洗ったり、牛車にのってスイカ畑の草取りに行ったり、また農繁期には田植えや稲刈りの手伝いをしたりと、今で思えば実にのんびりした毎日を送っていた。塾や家庭教師などとは全く無縁の生活で、休みの時には子供同士で日が暮れるまで遊んで過ごした。この遊び癖は大学時代まで(いや、もっと?)続いたように思う。父親の勤めの関係で、小学校を変わること3回、中学が3回、高校が2回である。高校2年のときに転校した際、最も戸惑ったのは高校によって授業の進度が違うことであった。地学を2回履修することとなり、生物は半分しか授業を受けなかったので物理と化学を受験科目に選んだ。また、微積は参考書で自習する羽目となった。しかし、なぜか試験の成績が急に良くなり、席次が3桁から1桁になったので一念発起して多少勉強にウエートを置くようになった。これが南九州を離れるきっかけとなった。


学生時代と今と
 大学入学後3年半はあまり勉強をしなかった。入学直後、大学紛争があり授業がなかったこともある。しかし、そのぶん本をよく読んだ。亀井勝一郎、大江健三郎、三島由紀夫などなど列挙すればきりがない。受験時代に御世話になった徒然草も全段読み直したりした。2年生の頃、ワンダーフォーゲル部から山岳部に入部し直したので益々授業とも縁遠くなり学部の成績は低空飛行の連続であった。学業に目覚めた(?)のは研究室に入ってからであった。4年生後半の頃は連日睡眠時間4時間ほどで卒論に取り組み、学術論文を読むことと実験とに没頭した。研究テーマは修士、博士課程でも同じであった。修士の頃に自分の研究テーマにあまり魅力を感じなくなったがテーマを変えようにも予算が無かった。しょうがないのであきらめて卒論の頃と同様、その研究に取り組んだ。しかし、この頃に学んだことが今の研究を進める上で大きな礎となっている。研究を進める中で、学部の教科書や参考書を読み直したり、いろいろな専門書を買ったりした。理解できずに悩んでいることが1ページでも書いてあれば迷わず本を購入した。この頃購入した本は今でも役に立っており、基礎的なことは時代が変わっても普遍であることを示している。博士課程3年のときに、無性に海外の山に出かけたくなって日本山岳会学生部の一員としてヒマラヤへ出かけた。当然卒業は8ヶ月ほど遅れたが、丁度そのとき助手のポストが空いて職を得たことが今の自分に繋がっている。人生、塞翁が馬である。


楽しい学生生活を
 助手になった頃、漸く電卓やパソコンが出現した。現在では100円もしない1 MBのディスケットが7万円以上もして、昨今の情報化社会は夢想だにできなかった。今や携帯電話やパソコンによるメールでの意思伝達が盛んである。電子メールは研究生活の中でも不可欠なものとなっている。画像データと共にメール相手と交信する時代も始まりつつある。このような通信媒体の特徴の一つに、不愉快な情報に接したときにそれを即座に遮断できることがある。「針のむしろ」に座って我慢する必要もない。こうした時代が堪え性の無い性格の持ち主を増加させるのではないか、と危惧することもある。世の中では自分の思惑と反することが多々起こりうる。例えばお説教を長々と聞く、だとか自己の主義主張や嗜好に反する人と議論せざるを得ない状況に対しては忍耐力が必要となる。そのような場合、即座に交信を切断できないのである。インターネットを使ったバーチャル大学も出現している。しかし、大学における学生生活では世代を超えたコミュニティの中で直接多くの人と接することが重要ではあるまいか。研究や学業に没頭する時期も重要だし、部や読書に没頭する時間も必要である。多くの体験をしながら、学生の皆さんには楽しい学生生活を過ごして欲しいと思う。楽しい学生生活とは、すべてが楽しく面白いということではなく、悩み苦しむことも含んでいる。研究室の学生が巣立っていくときの私の言葉はいつもEnjoy Your Life! である。喜怒哀楽すべてを包含して学生生活を楽しんでいただきたいと思う。
(東北大学生協ニュース 2001年6月1日 Vol. 153,素顔の教官たち)
このページのtopへ